時間の認識 [宗教]

時間については、過去にも書いているのですが、あれから大分時間も立っていて、私自身の認識も変化しました。つまり、時間が経ったと認識しています。あれはあれで今でもそう思っているのですが、かなり偏った表現だったなあ、と感じています。今はもっと具体的に表さそうと思います。
時間については、実在するものではなく概念だと考えています。なので、新しく考えた記憶の理論から言えば、時間は記憶の中にあり、記憶細胞の変化、つまりそれによる空間の変化が無い限り、時間の経過の認識は有りません。
よく年を取ると年の立つのが速いとか言います。これは、それだけ、記憶の変化、細胞の変化が無くなって来た、と言えるかも知れません。

ここ迄は個人の時間軸です。社会の中でしか生きられない人間は、環境の変化による時間軸も当然持たなくてはなりません。又は持っています。生まれて来る新たな命、亡くなって消えて行く命の変化も、人間の摂理として受け止めなくては行けません。

もう一つの時間の定義が、今ではセシウムによる原子時計の時間です。この概念では、世界共通ですから、世界の出来事をその時間軸で表す事が出来ます。これは、何かを解明するのに重要なのですが、慣れないと日付変更線が有りますので、日本時間しか必要ない人には、アメリカ時間で言われると、今日なのか、昨日なのか、面食らう事が有ります。とは言え、この辺迄は勘違いも自ら気付きますが、時間って進むものなのか、後戻りはしないものなのかと考えた時、粗方の考えは、進むものと答えるでしょう。確かに同じ場面、同じ事象は、起こらないにしろ、とある周期で繰り返しています。人はそれを予言とか言ったりしますが、何年、何月、何時何分に日食が起こる事は、あらかじめ知る事が出来ます。しかし、これを予知とは言わないようです。科学的に証明されている検知となるようです。でも、私から見れば同じ意味なのです。

ここでふと思い出しました。話は逸れますが、聖書の行(くだり)には、復活の兆し見たいな行があって、「日傾き茜色になる時、日沈むを知る。地震が来るの、偽予言者が現れても未だだ。」と言った箇所があった?と思います。もう、聖書は目を通してもいなく、今は、改訂、捏造と言うことも多々有るので、定かではないのですが、聖書ではなく、誰かの著作だったかも知れません。当時の本は、Book-Offに消えてしまいました。
しかし、思い出すと、今の日本の状況を言っているかの如くに思えます。その当時今のイスラエルに地震なんて日本みたいに有ったのでしょうか。偽予言者が現れる程、宗派が乱立していたのでしょうか。ここは、イエスが時間空間をどう見て、天国をどう見据えていたのか分かりませんが、今のこの日本の状況に当て嵌めると、何故かピッタリします。余り架空の話はしたくないのですが、これを立証化すると、イエスは未来の世界で、とある事象の落とし穴に落ちて、その時空に産み落とされた事になります。今でも、20XX年から来て、何年にこんな事件が有ったとか訳分からない話をする予言者が世界にいますが、私にはそんな未来は見えませんので、架空の話と言うだけです。
只、そう考えないと、割の合わない体験も有り、その話は機会があれば、したいと思います。又そのころは、天動説で、時間を表していましたから、三日の後に復活すると言ったイエスの言葉は仮に間違っていたとしても、今の地動説の立場のその三日は、太陽が、ある絶対座標から見て3度目に元に戻る時間になるので、あながち今の三日ではない事にもなります。

それでさっきの続きですが、マクロな天界では、きっちりとした規則、法則で説明できますが、こと人間の大きさとなると、その働きである法則、周期が当然あると思っているのですが、定かでは有りません。まして、それより小さい化学反応が作用するミクロの世界では、不確実さは、否が応でも生じて来ます。ですが、時間が定かでなく、事象が前後したにしろ、当然起こるべき事象は有るはずです。その本来起こるべき事象が、ある確立で周期を乱す事象に遭遇した場合、例えば交通事故のような、人為的事故は、どうなる事になるでしょうか。例えばこの事故が、死亡事故だった場合、亡くなって困るのは、亡くなった本人では無く、本来この人を必要としていた周りの人と言うことになります。亡くなった人の時間は止まったままです。周りの人の時間は、物理的には進みますが、当然必要とする事象の時間は、御預けになり、止まったままになるのではないでしょうか。
この場合の時間は、概念的にはどう表現する事になるでしょうか。

周期は巡って来ます。しかし、同時進行ではないので、生きてるほうは死んでる方を待たなくてはなりません。ここは、抽象的表現になりますが、具体的となると説明に自信が無いので何とも言い様が有りません。つまり、人間時間とも言える時間合わせです。でなければ、外的調和は保てません。数的には虚数と言う概念も有ります。

ここで、頭をちょっと冷やして、西暦を考えてみると、紀元前と紀元後と分かれています。日本に生まれた者に取っては、他国の暦と言ったイメージが強いのではないでしょうか。日本には天皇制による年代の表し方が今でも継続して使われているし、それで記述したところで、何ら違和感は有りません。どちらでも都合の良いように使えます。
ところが、西暦は西暦で深い意味が有って、後付けにしろ、救世主の生まれた翌年から始まっています。この暦の捉え方は、人夫々だとは思いますが、結構重要な時間軸です。天皇制では崩御した翌年から年号が変わり、新しい年号の一年が始まります。実際、西暦もそう言う意味で始まったと思いますが、新しい一年は始まりません。別段始まる必要も無いと言えばそれまでですが、通常であれば、始まりに根拠が有るので、終わりは必ずあり、終わる時には区切らなければならないはずです。終わっていないのでしょうか?終わりは無いのでしょうか?それとも、未だ終わりは来ないのでしょうか?それとも、本当はとっくに終わっているのでしょうか?
いずれかだとは思いますが、何故か随分長い年月だと思います。

さて、自動車事故のように考えれば、救世主は、周りに必要な人がいない限り、復活は意味が有りません。キリスト教が必要でない人には、意味は無いと思います。中には漠然と勧められるまま教徒になっている人もいるかと思いますが、逆に踏み絵に有って、死んだ人もいるでしょう。これが国レベルの話で、人殺しが正当化されるのであれば、もう法律は意味が有りません。裁かれるのは幕府だったかもしれませんが、それを先の大戦で、清算にしたかのようなカモフラージュは、大いなる地球の目から見れば、裁かれる対象です。西暦が未だ終わっていないとすれば、裁きは未だ終わっていないのです。とすれば、何とか復活するのを防ぎたい、無かった事にしたいと思う人もいる訳で、イエスが生まれた時に、ユダヤ王が、幼子を大虐殺したというのも、頷けます。

まあ、救世主が復活しようが、しまいが、人間の意志とは無関係に流れる時間、周期と言うものが有って、或る現象を待ち望んでいる人もいるはずです。または、それが何なのか、追求しなければなりません。でなければ、人間として生まれて来る意味は有りません。その辺にいっぱい居る、カラスや鳩と同じです。
最近意味の無い殺人事件が、続きますが、それを犯す人達の共通意識は、生まれて来るのも偶然、他人が生きているのも偶然、死んでしまうのも偶然、殺されても偶然みたいな、安易な発想が有るような気がします。勿論学校で人生の意義あるものに付いては、教育で教えると言うのは皆無に等しいのかも知れませんが、何でもかんでも教育に任せられるものでもなく、家庭だったり、地域のコミュニティだったりするのでしょうけれども、それも何か希薄になっているような気がします。

こう見て行くと、今人類が認識している時間の概念は、実に曖昧です。西暦は考えようによっては、起こりえるはずの事象迄の時間ですから、待っている時間で本当は虚数で表さなければならないはずです。つまり、マイナスの時間とも言えます。
この間の時間では、何でも有りです。懸命に生きるのであれば、最短時間で行けますが、道筋が開けなければ、時間は永遠とも思えるくらい長くもなります。

時間は全ての現象に関わって来るので、語れば切りがなくなるので、今回はここ迄です。
タグ:時間の認識
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