同時性の問題 [科学]

前編の続きですが、人は生死を繰り返しながら、人類を持続させています。両親から子へ、子から孫へと続いています。このルーツを辿れば、一対の両親、アダムとイブに辿り着くのかも知れませんが、私はそう言う立場でものは考えていません。それならば、人類は無駄な争いや、戦争はしなかったはずだからです。時間差はあれ、人間に迄達した動物の種類は多種に渡り、今の人種と同じくらい、そのルーツは在ったのだと思います。
じゃあ、元々のルーツは何処からだと言われると、定かでないので追求するのではなく、化学的には、原子です、と言った方が正確になるかと思っています。
なので、この広い心が世界の隅々に迄行き届けば、争いは無くなると思っています。

子々孫々と続く人間の遺伝子は、人間の波長を保ち、数々の挫折を繰り返しながら進化して来ました。
と言って、どの方向へ進んだのでしょうか。又は、進んでいるのでしょうか。この答えは見方によって色々あります。勿論世界は昔に比べれば、狭くなったと言うか、世界中行けない国は無く、インターネットである程度の世界情勢が分かるようになりました。それと引き換えに、環境を破壊し、災害にも多く見舞われるように、嘗て無い大事故も経験するようになりました。
確かに壊してみないと、体験しないと分からない事も有ります。しかし、それで失う方が大きくなるのであれば、何の意味が有るのでしょうか。

と又口説くなりましたが、この様な社会構造に成れば、人間関係も複雑になります。人口も平和であれば増えますから、今迄地域で必要とされて来た役職も、情報がストレートに流れる社会では、デュプリケートな存在となり、篩(ふるい)に掛けられます。と言って中々改革が出来ないでいるのが、実状だと思います。原子力発電と同じ、リスクを背負って迄、電力を作る必要が無いにも関わらず、戻るに戻れない、止めるに止められない、と言うのと同じです。

まあそれらの問題は誰かに任したとしても、一般人にも共通して言える事象が有ります。これからは、こちらの方が心配なのかも知れません。官僚等は、子供が増えて欲しいとか言っていますけど、これは、人間を数の対象としか見ていないから言える事で、今、産業も一段落付いている日本の情勢で、安易な育成では、子供の未来を開けません。思い通りに生きられないのは、いざ知らず、それ以上に思い通りにならない事が予想されます。と言うのは、地球の時空には、同じ時空に同時に、二人は存在できません。同じ遺伝子が二つとないように、時空が禁じています。
何故そうなのか、と問われても、不確定性原理が同時に二つの状態を知りえないように、真の自分の姿を同時に二つ見れないのと同じ事です。つまり、同時を求めるのであれば、存在出来ないのと同じ事です。仮に、これをちょっと強引ですが、確定性原理と名付けました。これは後で、深く考察します。
同時性の問題は、アインシュタインも論じていたのですが、理解できないことから、漫画化(曖昧化)されて終わっていたと記憶しています。

さてこのルールに従えば、人類が延々と引き継いでいる人の生命は、過去と現在と未来とに分かれて存在しないと引き継げません。何故なら、人の一生には、限りが有るからです。人間社会では、大まかに分ければ、幼児、成人、老人と暗黙の了解で認識しています。しかし、色々な職種が増えると、これだけで、足りるでしょうか。
これが、正当性がある議論だとは、過去のブログにも述べています。生物の進化を探る手掛かりは、姿形は多少違えども今でも残っていると。
鳥類の元々の先祖はトビウオのような魚類だとした事もそうです。人類の先祖は、イルカとしています。これは、アザラシでもその他矛盾しない生き物であれば同様に言えます。つまり、同じ時空を所有する生き物が増えると、争いが生じどちらかを、滅ぼさなければならなくなるのです。それが、魚であれば、空へ、イルカやアザラシであれば、陸へと否が応でも住処を移動させなければならなく成るのです。さて、人間は今度何処へ向かうのでしょうか。

この場合、時空とは、場所は含みません。これはどういう事かと言うと、アメリカ大陸に住む人、ユーラシア大陸に住む人…の区分けではなく、あくまで、同じ性質の空間に存在している人、同じ重力場を感じている人となり、実はかなり狭い空間です。
それなら、そんなに人々は生きられず、絶えず争ってばかりになるじゃないか、と思った人がいたら、本筋から逸れていない人だと思います。それ故、時間の認識が重要になるのです。
前にも時間とは概念であり、実在しないものとしていました。(時計とかの時間は省いています。)それはそれでそうなのですが、空間の変化は時間で表すと非常に便利です。それでも、それは単なる変化であって、時間は付帯的なものです。
なので、変化した後は、変化しない前の状態がなければ、比較対象がないので今度は変化に気付きません。まして、過去の記憶を消し去られたら、どう今の状態を理解して良いのかも分からなくなるはずです。これを、ある程度なるほどと思った人なら、今迄述べて来た事の関連が、繋がっている事と、何故北朝鮮の事を持ち出したか、ピンと来たはずです。
そうでない人は、これから先読んでも、繋がらないので何時か思い出した時、別の方法で、この問題を乗り越えた時、つまみ代わりに読んでいただけると、有り難いような気がします。
つまり、自然界ではそう言う原理が働いているのに、理解無しに子供達を育成したら、存在しない弱肉強食の世界です。

ここで、一応区切りたいのですが、話は未だ続きます。
これからは余談なのですが、争いと一言で言っても、色々な争いが有ります。今では言わなくなったのでしょうかどうか知りませんが受験戦争、事故では交通戦争、ある意味ではスポーツも戦いであり、経済戦争、本格的に軍備を使った武力闘争、デフレであれば安売り競争、選挙もある種党争と言う闘争と色々だと思います。これらには、誰が考えても明らかに意味の無い争いが有ります。それなら無くさなければならないはずですが、見通しが出来ないのか、返って都合が良いのか、不可抗力なのか、無くなりません。これでは、前に進みません。時間はマイナスに進むか、止まったままです。こう言う問題は、ギリシャのような国民が得意そうですが、かやの外であり、国自体もそれどころでは有りません。経済的に解決しようとすれば、火に油を注ぐようなもので、経済大国が増々焼け太りするだけです。何処か桁が外れているのは分かっていても、ナスがママ、パパがレモンと言ったところでしょうか。冗談はさて置き、次へ。
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