日本の思い出 [雑学]

前の続きは、殆ど出来ているのですが、何故か文章としては出来が悪いと言うか、伝わらない様な気がしているので、取り敢えず話題を変えて、日本の文学に付いての思いでを振り返ってみました。と言って日本の文学に付いては殆ど門外なので、戯言になるのですが、子供心に理解はしたいと思って読んでいました。
でも、先に嫌悪感ばかりが走って来るのですけれども、今の時代は、日本の文学はどういう位置づけかは、噸と分かりません。未だにマトモには読めません。

明治の文豪と言えば、夏目漱石、正岡子規とかが有名なのか知れませんけれど、どちらも早死にの人と言うイメージです。早死にが悪いとか言っているのではないのですが、ではその後の世界は、継承されているのかとなると、それで完結している様な気もします。科学の世界は、この世の現象が解き明かされる迄続きますから、個人的レベルでは無く、世界的に継承が続きます。

夏目漱石と言うと、坊ちゃんとか有名だと思いますが、何がどうなのか、とんと分かりません。その他にも三部作とか有ったと思いますが、何が本筋なのか彼女の事なのか、ただ、「Stray Sheep」だけは気になりました。
漱石が絶賛した、門下の芥川龍之介の作品も、初期の作品は読めません。ただ、寓話形式の「鼻」「羅生門」「蜘蛛の糸」「杜子春」は、作品としては中々だと思います。ただ、読んでて疲れます。後期の「歯車」「西方の人」で、やっと時空が見えます。つまり、今迄誰も踏み込んだ事のない、この世の成り立ちに触れていたのですが、これくらいだと、私も読めます。なのに、絶え切れなかったのか、その世相では禁じてだったのか、若くして命を絶っています。その頃だったと思いますが、アメリカでは、アインシュタインの名声が高まり、日本でも知られるようになります。なので、龍之介も彼の事に付いて若干触れています。子供の頃の思い出として「かわいらしいものにゾウ」と書いていたと。又こうも言っています。「ゾウよ、お前はコスモポリタンだ」と。当たっているとは思いますが、祖国のドイツの指揮官ヒットラーに懸賞金が掛けられ、指名手配されている以上、国を思う気持ちを持てなかったのは、当人にしてみれば当り前です。
彼の作品の「彼第二」は、当人はおろか、後にこの軌道を通る人にも狭き門を与えます。それが誰かは、言いませんが、背理法で出て来ます。

その後を継承していると言えるのが、太宰治だと思うのですが、初っ端から、自殺未遂しているので、作品なのか、遺書なのか、どういうジャンルにはいるのか見当が付きませんが、外国での評価は、「駆け込み訴え」が一番良かったと記憶しています。彼も亡くなる前に、私の電子波に繋がる作品を残しています。

文学だけでなく、日本の哲学書、科学書には目を通したつもりなのですが、学問には、国教がないはずなのに、日本の域を出ていないとしか言いようが無く、その点まだ芥川龍之介の方が、扉を開けてくれたと言う意味で、後世に残るものだと思います。まあそれを、気が狂ったと言って、国民が別の道に引き返したところで、待っているのは国民総心中だった訳で、最悪と迄は行かないものの、近かったのではないでしょうか。

しかし、この手の問題は、時代が過ぎたからと言って去った分けではなく、ある人達に取っては、未だ残っているのだと思います。例えば、不確定性原理をそうだと思う人、国家や政治を信望している人達に取っては、未だに続いている問題なのだと思います。
私も、それは先行き不透明ですよと言っているつもりなのですが、その立場で生きている人に、そんなことを言っても馬耳東風なのだと認めざるを得ません。

話が大きく変わるのですが、今問題になっている事に、脱法ハーブが有ります。
これに関する事故が絶えず、周りにも迷惑をかけているので、防がなければならない分けですが、これが、法に触れる物質かどうかを判定するのが難しいらしく、抜け穴だらけなのだそうです。この検証を妨げているものに、この間迄触れていた、向精神薬があるそうです。しかしこの手の問題は、社会背景が大きく絡んできます。報道は、それを使用した個人だけをターゲットにして、番組を構成しますが、根幹から絶やすには、その背景をセットにしない限り、情報が一人歩きするだけです。では、多く発生している人口密集地帯を見れば、大概は色んな意味で揺れています。大阪もかなりの問題を抱えていますし、それ故、橋本市長が浮き上がっています。その中で、向精神薬を必要とする患者は、多いものと思えます。
そうだとすると、それは見えない部分にしろ、地域全体にじわじわ広がります。ここが問題源だと思っているのですが、何故、こう言った人が増えるのかが問題です。通常地域社会が健全であれば、薬なぞに頼らなくても、生きて行けるはずです。被災地もそうだとは思いますが、地域が破壊されているところでは、復興軌道に乗る迄、かなり続く傾向だとは言えますが、何故インフラが整っているはずの都会みたいなところで、起こるのでしょうか。マトモに考えれば、都市の破壊が始まっていると言うことです。確かに改革は、ある種の破壊が伴いますから、一部の現象として起こるのは想定できますが、気軽に脱法ハーブを買えるのは、社会がある程度許容していないと出来ません。
考えてみれば、脱法ハーブは、高価なものです。これは、良い意味での社会に還元は出来ません。強いて言えば、税収が増えるのかも知れませんが、脱税もやろうとすれば出来ます。元々脱法ですから。皮肉なものです。税収を上げようとする行為が、思わぬ形で現れる事にもなるのでしょうか。医療も同様に言える様な気がします。法が定まっていないから売れる、法を定めると向精神薬が作り難い、となれば、イタチごっこです。抜け穴は、延々と続きます。次第に社会も悪くなります。

今のところ政治も不安定ですから、皮肉混じりで言えば、不安定が不安定な人を呼び、生活保護を必要とし、不安定な人が向精神薬を必要とし、不安定な人が脱法ハーブを必要となり、負の連鎖が止まらなくなります。そこに科学者が、不確実性の時代だからなどと緒膳立てしたら、付ける薬も無くなります。

私に一言と言わせてもらえば、どちらの社会に住みたいのですかです。不確実性な社会か、確実性の社会かです。確実性の社会は、そう容易くは訪れません。かと言って、今の社会に甘んじていれば、この様な社会から脱却は出来ません。選択は今迄でも有ったし、残されていた道もあったのですが、遅れれば遅れる程、道は閉ざされます。まるで、蜘蛛の糸の様なものです。一言でした。

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