白鳥と稲作 [生物学]

前の続きで、稲作について考えていたのですが、そのルーツと歴史についてです。
稲は、人間が誕生する前から、自然に育っていたと普通に考えられます。米を主食とする場合、水と豊富な栄養を含む土が無いと、自然には育たないと思います。世界を見ると、最初から米を主食としてきた民族は、又は出来た民族は、そうは居ません。四季がはっきりとし、冬雪が降り、夏の暑い時にも水が枯れないように、山からの水源がないと、育ちません。稲を知らなかった先祖は、これよりも、比較的水無しでも育つ、稗や粟、小麦、蕎麦、小豆の実を食べた方が自然に生きられます。

では、稲作を始めたのは何時頃だろうと調べると、中国が発祥と有り、今から1万2000年前が最古と有ります。又水田耕作遺物となると、日本の最古である岡山県と肩を並べています。
しかしこれは、調べられる範囲の史実であり、実際のところは定かでは有りません。これらが、自然に出来たものか、人が作った物かでも、判断が難しいし、人が作った物であれば、今でも改良が続いているのではないでしょうか。また、人間が気付くには、相当知能がないと、食料としての活用は無理です。それよりかは、目の前のソバ、小麦を収穫した方が楽なので、ずっとそうしていた筈です。では、何が人間を稲作に向かわせたのかと考えると、人間より先に空中、地上を制覇していた、鳥を考えるしか有りません。なので、日本の場合だけを取り上げて考えてみました。

日本には、冬多くの渡り鳥が飛来します。
寒い時わざわざ来なくても、良いじゃないか、とこの間まで思っていたのですが、寒い時期でないと、生きられないところを見ると、寒い時期にしか得られない食料が有ると言うことです。今人間は、輸入で季節に関係なく、比較的何でも食べれますので、余り本来の食料事情は考え難くはなっていますが、本来であれば、冬、雪の多いところでは、保存食が無ければ、生きて行けないか、遊牧の生活をするかしか有りません。しかし、日本の地形は、途中山々が遮り、遊牧には適していません。船で渡ると言う手も有りますが、古代の技術で渡るには、至難の業であり、それよりかは、定住の道を選ぶ筈です。
ここは、また日本昔ばなし風になってしまいますが、
冬雪がちらついて来て、飢えに困る女、子供をが多い村民を守るために、村長達が食料を得るために、村から追い出され、食べ物を探しの旅に出ます。ウサギやシカもそうだったでしょう。しかしある日、北からやって来る人間程の大きさも有る渡り鳥が、近くの草原に降り立つのを見て、何か食べ物が有るのかと、見ていると、確かにおいしそうに何かを食べています。渡り鳥を追い払い、冷たい湿地に入って行き、何を食べていたのかと覗き込むと、まばらに点在する稲の実です。村長は、それを掻き集め、村に持ち帰りました。それを、蕎の実同様、料理して食べてみると、結構、力が湧くのを知ります。こうして年日を重ねて、何年かが過ぎ、稲作と言う技術を身につけ、農耕という定住生活が始まり、村は大きく栄えたとさ、めでたし、めでたし、終わり。

ここで出て来る渡り鳥は、今私の知る限りでは、白鳥しかいません。今では、人間が綺麗に稲を刈るし、収穫時には、水を抜きますので、大量に収穫できますが、
自然に生えていたものが殆どだと思いますので、白鳥の長い首や、水かきは、欠かせないものだったのに違い有りません。白鳥は、今では餌を与える時以外、人間には近づきませんし、田んぼにいる時は、必ず集団で、人間に襲われても逃げられる距離でしか活動しないし、今では多分僅かな落ち穂を拾って生きているのでしょう。最近は、鳥インフルエンザとか言って、餌も与えないよう禁止されていますが、意味が有るのでしょうか。

さて、ここで言える事が出て来ます。今の日本人の知識では、米を如何に大量に安く生産する事しか、眼中に無いし、米は低レベルの人間が、しょうがなく作っているものというイメージが有るのではないでしょうか。「そんな事は無いよ!」と言う人は、私から言わせれば、二枚舌の誰かと同じで、腹黒の人間が吐く言葉です。

これは、農家も悪いところが有ります。稲作の技術を自ら考え得られた人間ならば、地上に君臨できる人間だと思います。その人ならば、自然哲学が有り、宇宙観が有り、争いの愚かな事を諭し、もっと多彩な技術も生み出せた筈です。
しかし、歴史上、そう言った人物はいません。私の知る限り、上杉謙信公が優れた人物と言われていますが、京の武士の争いに巻き込まれています。
だからと言って、農家は卑下する事は無く、自然に向き合い、自然と会話をして、磨きをかける事が出来た筈なのに、何故出来なかったのでしょうか。

その答えが、稲作を気付かせてくれた白鳥に有るのです。人間は、その当時、やはり白鳥のやる事を見習って、それを当座で応用しただけに過ぎなかったと考えるのが妥当です。
今白鳥を見て下さい。結果的に知恵の実を与えてくれた白鳥は、冬の名物史だけの存在となり、ぬいぐるみとしての存在は認められますが、人間の都合で、環境に果たす役割、嘗ての恩恵については、学ぶ事も無く、どちらかと言えば、厄介な存在です。つまり、共存共栄と言う概念は、人間には無いのです。

これを人間が持てないと言う事は、争いの原因に繋がります。農家は、利用される側に立つ事を意味します。今の日本の現状を見て下さい。繁栄をしているところと言うのは、耕作地を持たないところであり、経済と言う名の路線に乗れるだけのところです。それに遅れまいと、機械化を進め、品種改良に踊らされ、農薬を使い、大量生産せざるを得ない状況です。これで喜ぶのは、農家、生産地の人達ではなく、その他の人達であり、農薬を使うと言う事は、側で生きて来た生物を滅ぼし、引いては、海の生態系まで乱し、漁業にまで、影響を及ぼします。
今こちらの海では、以前程、魚が捕れなくなって来ています。これは、釣りに行くと良く分かりますし、実際そう報道されています。原因はと言うと、的外れな事を言っていますが、経済効果を第一優先するマスコミでは、しょうがありません。まして、企業誘致で、工場ばかり来るところでは、どんな有害物質が流されているのか、ニュースにもなりません。

私は、生態系を乱し、人間ばかりが住める様な社会では、移連れ人間も住めなくなるし、それを気付かず許してしまった私も、消え行く運命だと思っています。福島の汚染された地域もそうでしょうけれども、一度許してしまって、いざ起こってはならないことが起これば、ことがどうあれ、取り返しは非常に困難です。つまり、何を言っても徒労に終わるだけです。

ここまでの結果から言える事は、誰のせいでは無く、知ろうとしなかった人間のせいです。
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