学問の垣根 [学問]

私の表現は、科学的ではありません。数式も使ってないというより使えないのです。森羅万象を理解した時には、数式は消えるとしか言いようがありません。まるで文学的でもあり、宗教的でもあります。方程式、化学式は理解するのに必要なツールであっても、真理には到達できないとしか言いようがありません。自然は人間の傲慢さを拒んでいるようでもあります。では学校ではこの場合どう扱えば良いでしょうか。学校では成績がつきものです。しかし成績だけでは、真の能力は測れ無いとしなといけないようです。学問の目的は、みんなが知って徳を持てる物でなくては成らないのに、今の教育は、上に行けば行く程複雑怪奇なものになって行くようし向けているのではないかと。要は脱落者を生む人生ゲームみたいなものでは。私には自然は、一つの事が解れば極々単純なものです。迷いもありません。その一つが解らなければ、つまり土台がなければ、説明のための説明、その説明のための説明と無限地獄に陥ります。
子供のうちの理性はほとんど無力です。先生の間違った方法で押し込まれたら、従うしかありません。例えばこの例です。Na(OH)です。つまりNaOH ---> Na+ + OH- という化学式です。生徒だった頃何の疑いも無く、そう信じていました。でも40年経った今やっと化学のテストが0点に近かったか分かりました。嘘だったのです。ようく見て下さい。ナトリウムも水素も同じ1属です。これは水と同じ結合状態を取る事ができます。つまり、H-O-Naが正解です。ナトリウムは一個中性子が多いので個体の性質を持ちますが、水素側は液状です。だから金属のような堅さにはならないと。こう教えてもらえば、すっきりしたはずです。今では私は化学式をすべて私の理論に置き換えて考えています。

日本の文学にも当てはまります。私は日本の文学では芥川龍之介や太宰治が好きでした。中でも後期の龍之介の作品は実に科学的でもあり、真実味もあり秀作です。龍之介の子供の頃の感想文に「かわいらしいものに像」というのがあります。像とはアインシュタインのことだとすぐ分かりました。折しもアインシュタイン絶盛期に自殺しましたが、決して命を粗末にした訳ではありません。でも学校の先生は「可笑しいだろう。狂ってるだろう」の一点張りで理論の構成の美しさ迄は理解しなかったようです。私はその当時ではそういうことが実際に起き、それを如実に表現しただけだと思っています。太宰文学では、駆け込み訴えが大一級品です。これにはさすがの外人達も驚いたのではないでしょうか。本場のキリスト教徒もびっくりするような内要です。なぜ日本人の作者がユダの気持ちがわかるのかと。でも学校の教科書に出で来るのは走れメロスでした。これはやむを得ないのかな。それゆえ国語もほとんど0点に近かったのでした。

今私に科学も文学もありません、同じ学問です。どうか変な垣根は作らないよう、教育関係者の皆さん、なにとぞなにとぞ宜しく御願いします。
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