司法・立法・行政 [雑学]

日本の三権分立の司法・立法・行政は難しい問題で、独立機能していないのは先の尖閣諸島問題、捏造の誤認逮捕からして明らかだろう。まだまだ日本はよちよち歩きの国ということになる。政治家に期待するのはもう諦めた方が早いのかもしれない。では他に方法があるのか。まず人夫々の意識改革も大事だろう。私は若い頃から今の意識を持っていました。決して今になって意識改革した訳ではありません。誰もが世界のトップに立てる訳ではありませんが、もうその頃からトップ的心象風景を持っていました。しかし、天は二物を与えずの喩え通り、まだ未完成で世に打って出る事は出来ませんでした。まだパソコンも無かった頃です。今でこそブログとか便利な物が出来ましたが、その頃はこんな時代が来るとは予想だにしていませんでした。そもそもこのスピードに、三権に関わる仕事をする人達は付いて行けなかったのかもしれません。

前に人間時空のところで述べましたが、司法・立法・行政の関係は、人間時空の関係と同じところがあります。これはまだ未達成なので、存外な事は言えませんが、人間時空では、どちらかが一方的に力を行使すれば、もう一方が憂き目を見れず、もう一方の監視が強くなり、チェック機能が必ず働きます。つまり上手く機能が働かなけれが、痛みを伴うから本能的に回避する事になるのです。
今の司法・立法・行政の関係は、他のブログを見る限りでも、かなりいい加減のようです。最も上手くいかなくても大した痛みも伴わず、時間稼ぎしていても必ず決まった給金は入って来ますから、地位さえ確保できてれば、後は他人事でもいい訳になります。ではここで問題なのは、何処でしょうか。一つは給金です。公務とは言え、出来高制、成果主義の発想はここにはありません。又男女の関係も実に稀薄です。アメリカの大統領のような当選パレードをやれる日は来るのでしょうか。それは日本の風土に合わないと言えばそれまでですが、女王の居ない王はいないはずです。

イエスの教えでは、「裁くな、されば裁かれん」と言うのがあります。これは、人が人を裁く事は出来ないと言う意味にも取れます。裁判員制度と言うのが始まりましたが、イエス自体は誰も人を裁いた事はありませんでしたが、逆に裁かれ磔刑になりました。本当は人は人を裁いて死刑にする事は出来ないのではないでしょうか。たとえ犯人と呼ばれる人が、殺人と言う犯罪を犯したとしてもどんな因果応報が隠れているかは、本職の裁判官だって分からないのではないでしょうか。まして一般の裁判員などは死刑を求刑できる程判断力があるのでしょうか。私ならそれには参加しません。何故なら、たとえ受刑者とは言え、死刑に加担すれば、それは殺人と同じ事ですから。以上私の意識改革理論でした。

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