ビッグバーン説と卵説 [物理]

ここまで理論を展開すると、どうしてもぶつかると言うか、矛盾を生じてしまうのにエネルギーの概念が有ります。地上で暮らす分には、一般に知られているエネルギーの概念で十分だと言うことで、誰も疑うことは無いと思いますが、宇宙スケールになると、そうも行きません。
考えていたのは、宇宙空間を運動しているとされている、宇宙線や光、電子です。宇宙を眺めれば、星々より圧倒的に何も無いとされる空間の方が体積的には多いわけで、その間を色々な光が交差していると考えられます。太陽系であれば、太陽から輻射される光が殆どですが、中には他の銀河から届く光も有るわけで、それ故に銀河も観察できます。
でも待って下さい、この光は、遥か昔の過去の光もあれば、ちょっと前の光もあれば色々あることにあります。さすがに、光より速い粒子は存在しないこととなっていて、つまり未来から来る光は無いことを、実験で示しています。

芭蕉の句に、「月日は百代の過客にして、行き交う人もまた旅人なり」があります。ネットで見ると唐の李白の「夫天地者万物之逆旅、光陰者百代之過客」をもじった言葉とされ、解釈のされ方は色々あり、ここは私なりに解釈すると、一時代の歴史の人々が、時を超えて会えた事を詠んだ句だと思っています。李白となると、それがもっとはっきりしています。
国語の試験問題で、そんな事を書いたら、先生の逆鱗に触れ、学校でもいじめに会いそうです。実際そうでしたから、今でも色んなケースで起きている事だと思います。義務教育では、国語は必須科目ですから避けられませんが、国語が0点でも別に気にしてはいませんでした。今もし私があのような教育現場の中高学生なら、学校には行きません。遠回りでも、別に学問を究めるしか有りませんから。
芭蕉の句では他に「…岩にしみいる蝉の声」も有ります。これでも分かる通り、芭蕉は科学的に物事を考える才能が有った人だと思います。詳細は、この場合の主旨では無いので省略しますが、学会の論文が、何ページに及ぶに対し、たった一行で表現すのですから、大したもんだと思います。

さて、これを踏まえても、光は過去の光も含まれていると考えなければ成りません。とすれば、今現在の姿は見えない事でもあり、それで、宇宙の構成を考えるには、元々無理が有ります。なのに、何故ビッグバーンが有ったと考える事が出来るのでしょうか。答えを出そうとする人達は、答えを求めてはいけないものに、何かの理由で答えを押し付けているとしか思えません。なので、私はヒューマンガイドラインの乗っ取って、答えは無いとしました。

それで本題なのですが、過去の光と今の光は、混ざらないのでしょうかと言う疑問です。波は、重ね合わせが可能です。であれば、混ざる筈ですが、それは問題視されていませんし、私自身が光を何か勘違いして捉えているとした方が良さそうです。なので、しばらく考えて、光をこう捉えました。光とは、人間の目に見えるものではなく、光が無いから見えない物を光を通して見えるものにするもの、としました。とすると、李白の詩は、こうも訳せます。「地上の万物は、天上界の逆回しのドラマの現象であり、光で照らされる物体には、何百年の開きが有る」としました。これも何の事やらの訳に成りますが、春の夜の宴席で詠んだ詩なら、単純に、天地の定めで、栄枯盛衰は世代が変わって行くと逆に転じる、でも通じる気がします。

李白はどうあれ、そうすると光とは、無でもあります。質量も0な筈です。しかし、同じ物とされる電子は質量を微小ですけれども持っている事に成っています。数字上では、0は何回足してもゼロです。ですから、プラスの質量を使うのであれば、マイナスの質量がなければなりません。これを反物質としていますから、理論上成り立ちます。そうやって、粒子全部に反物質があるとしていますので、全体としては質量は0です。と言うことは全宇宙も質量ゼロでエネルギーゼロです。

今知られているビッグバーン説は、高エネルギーから始まっているとされていますから、私の理論とは明らかに矛盾します。つまり、ビッグバーンは無かったとする立場です。

それでは、宇宙の始まりはどうだったのかですが、これは大部前に述べているので重複は避けるとして、科学的に考えれば、核融合だけで済むのですが、残念ながらそれでは生命誕生は、化学的結合の組み合わせで、それがビッグバーンと同じ確率論に成ってしまうのです。一般的なビッグバーンよりは、かなり確立が高いのですが、所詮は不確定性原理みたいなものと変わりありません。
それでも良いじゃないかと諦めてしまう事も可能なのですが、それだと生物学の卵から誕生する時に起こる細胞分裂が説明付かないと成ってしまいました。
これを宇宙に拡張できる卵説とすると、この細胞分裂は、設計図がもう出来ていて、決定されています。なので、蛙の子は蛙であり、鶏の卵は鶏にしか成れません。人間とて同じ事です。これらの生物に崇高な理念があると認める事は難が有り、逆に宇宙その物が初めからそうして出来たとした方が、本能任せでやっている自然な事となり、スッキリします。

なので困るのです。それを認めて考えると、今まで組み立てて来た理論が大幅に見直さなければ、論理破綻してしまう事に気付きました。これは、私の理論だけではなく、一般に考えられている化学の世界も、もっと改訂が必要となります。
今回は改訂までは、言わないで、次回にしたいとは思いますが、今まで、結構、人の悪口を言って来た経緯もあり、何をやってんだ口調が、いざ自分の理論が、その嵌めになってしまうと、もう良いじゃないか、ここまでやったのだから、もうやめたって、罰は当たらないと言い訳したくなります。
しかし、程度の質の差はあれ、やろうとしないのであれば、族、賊と変わりなくなります。幸いにも、今まで手の込んだ力説をして来なかったのは、不幸中の幸いです。何とか次回でやってみますか。
その前に、このブログだけでも、補足が生まれましたので、その後となりそうです。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。